hirschkalb's blog

"I beseech you, in the bowels of Christ, think it possible that you may be mistaken."

可能世界で腑に落とす - 確率バージョン

『可能世界の哲学』(三浦俊彦著)を読んで、かねてより私の抱えていたいくつかの疑問が解消したので、いいえ、正確に記すと「解消したと勝手に思っているので」(私がこの本を誤読・誤解している恐れが十分にあります)、そのことを記しておこうと思います。


保身・体面保持(体面保持になっていませんが)のために断っておきますと、この記事は私の数学的素養が皆無であることを開陳する試みであり、あるいは/かつ、可能世界に対する誤解のサンプルとして供するものです*1

可能世界とは(私のアドホックな理解)


何かしらの学問、たとえば認知心理学において、サンプルとなりうる「人間」はこの世界にたくさんあります。水産学においては「魚介類」がサンプルとなりうるでしょうが、これも、この世界にはたくさんあります。一方で、宇宙物理学においてサンプルとなりうる「宇宙」は、残念なことにこの世界にはひとつしかありません。


ところで上で三度登場した「この世界」という言葉について、わざわざ「この this」を添えていることは、ちょっと示唆的といいますか、なんだか、由ありげです。「この世界」だなんて、まるで「これ以外の世界」があるかのような記し方ではありませんか。


このような問いに

「ええ、実際のところそのとおりなのです。世界は無数にあって、私たちのいるこの世界は、無数に存在する世界のうちのひとつです」(あえて語調を強めれば「ひとつに過ぎないのです」)

と回答するのが可能世界の考え方のようです。


可能世界を、何かしらの考えを推し進めるための単なる理論的装置(触媒)と捉えるか、あるいは本当に世界は無数にあると信じるかは学者によって意見(信念?)が異なるようです*2

確率ってなんですか


(この節を書くにあたって、たまたま「エヴェレットの多世界解釈」というWikipediaの記事を目にすることになったのですが、とりあえずきちんと読んでいません。ただ、「可能世界」という言葉と「多世界」という言葉はなんだか相性がよさそう……)(私の探究心などこれくらいのものです)


いまとなっては手放してしまった『数学的にありえない』(Adam Fawer著)の冒頭にエピグラム的に書かれていたことを、うろ覚え(私の妄想・捏造80%含有)で思い出すと次のようなことが書いてあったように思います。

(十分に信頼の置ける)科学者が、「明日地球に隕石が落ち、そのことによって人類が滅亡する確率」は極小と見積もったとしよう。それでも隕石は、落ちるときには落ちるんだ。


君だって、まさか隕石が「科学者が、あす私が落ちる確率を極小と見積もったらしい。しからば明日は落ちないようにしよう」などと判断するとは思っちゃいないだろう。


科学者が極小と見積もろうが、それとは関係なく、隕石が落ちるときは落ち、極小と見積もった当の科学者もろとも吹っ飛ばしてしまうんだ。何が言いたいのかって?結局何が起こるかなんて誰にもわかりっこないってことさ!


どのように計算されているのかはわからないとしても、十分に信頼の置ける人あるいは機関がはじき出したある確率は、十分に信頼できるはずです(定義により)。上のお話の例では人類が滅亡する確率が極小と見積もられますが、これはさしあたり一番信用できる、尤もらしい、確からしいものです。これ以外の確率を支持する合理的な理由がない状態なのです。


それでも落ちるときゃ落ちる。「隕石サイド」にとってみれば人間がどのような見積もりを出したかなど関心がなく、落ちるときはただ落ちるのみ。ドカーン!


「だったら、」と私は思うのでした。「いったい確率などを計算する理由は何なのだ」と。人間がいくら確率を計算し、あるひとつの私にとって不幸な事象Uが起こる確率が極小だと見積もられたところで、「不幸な事象Uサイドの気持ち」は変わることなく、そのような見積もりとは関係なく、無関心に、ただひたすらに起こるときは起こるのだ……。


あるいは、Uが起こる確率をゼロと見積もられたとしても、事態は同様です。「Uサイド」はこちらが確率をゼロと見積もったかどうかなどには一向に関心がなく、起こるときにはただ起こるのみです。この場合、「ゼロと見積もったではないか!」といわれたところで、実際に起こっちゃったのですから、それならばゼロという見積もりが間違っていたということが明らかになるだけです。


いったい確率ってなんなんだ。

可能世界で腑に落とせ!


十分に優秀な機関Aが、私にとっての不幸な事象U(たとえば「明日きわめて不味いラーメンを食べることになる」)が起こる確率が(百分率表示で)1%であるとはじき出し、翌日、私が実際に不味いラーメンにあたった場合、「可能世界を知る前の私」ならば何か納得できない思いでいっぱいになったことでしょう。


「確率1%だというのに不味いラーメンにあたるなんて、なんてミラクル!」


ところが、無数に存在する可能世界に思いをはせると──ここでは簡単のために無数ではなく100個*3あるとしますが──機関Aの計算が絶対に狂いないとして、確率1%を実現させるには、100個ある世界のうち、どれか1個の世界においては必ず不味いラーメンにあたって苦悶に満ちた顔を浮かべる私が存在していなければならない──「不味いラーメンにあたる私」のいる世界が1個だけ必要となるわけです。それが「確率1%」の意味するところなのです。


確率1%が確かであるためには、100個ある世界のうちどれか1個の世界において不幸な事象Uを被る私が存在することは必然なのです。


そのように考えたうえで、その「不味いラーメンにあたる私」が、この世界にいる私ではない理由がありませんから(この世界にいる私だけが他の99個の世界にいる私より特権的な存在であるといえる理由がありませんから)、1%という直感的に低い確率がはじき出された上で不味いラーメンにあたったとしても「仕方ないなー」と思えるわけです。


本当か?

*1:意訳: 「思い切り無知をさらすけれど私をたたくんじゃないよ」

*2:個人的には心の底からこのような概念を信じられたならいろいろと愉しかろうと思います。

*3:世界を「個」で数えることが正しいのかはわかりません。

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