hirschkalb's blog

"I beseech you, in the bowels of Christ, think it possible that you may be mistaken."

自殺への一歩 - ギャンブラーの誤謬

「自殺への一歩」などと、なかなか穏やかならざるタイトルで大風呂敷を広げてはみましたが、さほど大きなことを書くつもりはありません。あるいは書く能力など、もとよりないと白状すべきでしょうか。


いずれにしても、書く前の段階では「ギャンブラーの誤謬からニヒリスティックな態度が立ち上る」という漠然とした結論めいたものがもやもやと私の頭の中にあって、これを書くことによってある程度すっきりさせようというのが本記事の目的となります。

ギャンブラーの誤謬とは


ギャンブラーの誤謬とは、次のようなものです。

ギャンブラー: 「コインを投げたところ、いまのところ連続して表が出ている。表が出る確率も、裏が出る確率も、ともに0.5(50%)だ。ということはだ、この確率が保たれるためには、そろそろ裏が出てこないとおかしいことになる。だから、次は裏が出る可能性が大きい。私は裏が出ることに賭ける!」

コインには「少ない試行回数でも表裏それぞれの出現確率が0.5を保つようにしなくっちゃ!」といった意思はありませんし、以前の試行結果を記憶する装置もありませんから、したがって前回までに表裏のどちらかを出したかについてはまったくの関心なしに、今回、表あるいは裏を出すことになります。


ギャンブラーの正しい態度は、前回までの表裏の出現データをかんがみない(記憶から消す、でもよいでしょう)ことです。

人生論に適用する


良いことがあれば悪いこともある、あるいは、悪いことがあれば良いこともある、といった意味の箴言はいくつかあります(「楽あれば苦あり」「ふたつよいことはない」「先憂後楽」「人間万事塞翁が馬」)。これらの格言を人生論Jと呼ぶことにします。


これらは前節で述べた「ギャンブラーの誤謬」ではありはしまいか、というのが当座の疑問であり、本記事を書くきっかけとなったものです。

ギャンブラー: 「人生を生きてきたところ、いまのところ連続して不幸に遭っている。幸運に遇う確率も、不幸に遭う確率も、ともに0.5(50%)のはずだ。ということはだ、この確率が保たれるためには、そろそろ幸運に遇わないとおかしいことになる。だから、次は幸運に遇う可能性が大きい。私は幸運に遇うことに賭ける!」


幸運に遇うことに「いったい何を」賭けているのかは、ここではあえて問わないことにしましょう。また、「次は」とあるが「次」とは何か、単位は何なのかについても問わないようにしましょう。「次は」ではすわりが悪いならば、「近い将来には」とでも読み替えれば問題なさそうです。いずれにせよ、上記の例は構造上、ギャンブラーの誤謬に間違いありません。・・・(A)


人生にはいろいろの有限個の出来事があるが、たかだか一個人の人生における有限回の試行(少数の試行)の中で、幸運に遇う確率0.5が保障されるいわれはどこにもないのだ。私(ギャンブラー)は今までも不幸であったし、これからもずっと不幸である恐れが十分にある。死のう……。これが人生論Jにギャンブラーの誤謬を適用した場合のひとつの態度といえます。

反駁その1 - 幸運の確率とは何か


考えられるひとつの反駁(上記のような態度に対する批判)はこうです。「ギャンブラーは幸運の確率とやらを0.5と前提しているが、これはいったい何だ?どのように算出したのだ?こんなわけのわからない数値を出された時点で、ギャンブラーの主張はコメントするに値しない。誤謬でもないし、誤謬以外の何ものでもありはしない」


これについては、それならば、ギャンブラーの主張から妙な確率に関する記述部分を剥ぎ取り、多少の加筆を行ったうえで再提示するまでです。

ギャンブラー: 「人生を生きてきたところ、いまのところ連続して不幸に遭っている。人はみな幸運にも遇えば、不幸にも遭うはずだ。なぜならば、幸運と不運とは相対的なものであるらしいから*1。ということはだ、そろそろ幸運に遇わないとおかしいことになる。だから、次は幸運に遇う可能性が大きい。私は幸運に遇うことに賭ける!」


確率に関する記述を剥ぎ取ってしまったのだからもはや「ギャンブラーの誤謬」という用語を使う余地はあるまい、という反論がありそうです。しかし、ギャンブラーの誤謬は特に確率についてのみ言及しているのではありません。「事象Pは久しく起こっていない。だからPはほどなくして起こる」*2式の考え方は、ギャンブラーの誤謬といって差し支えないでしょうが、ここに確率に関する記述はありません。


もう少し簡単に書いてもよいかもしれません。

ギャンブラー: 「人生を生きてきたところ、いまのところ連続して不幸に遭っている。ということはだ、そろそろ幸運に遇わないとおかしいことになる。だから、次は幸運に遇う可能性が大きい。私は幸運に遇うことに賭ける!」


確率記述剥ぎ取りバージョンにおいても、ギャンブラーが次のような悟りを開いてしまう可能性(危険性?)があります。人生にはいろいろの出来事があるが、不運に見舞われ続けたからといって、残りの人生で幸運に遇うことが保障されるいわれはどこにもないのだ。私(ギャンブラー)は今までも不幸であったし、これからもずっと不幸である恐れが十分にある。死のう……。

反駁その2 - 不適切な適用


次のような考えはギャンブラーの誤謬ではありません。

ギャンブラー: 「赤球と白球が入った袋の中から無作為に球を取り出し続けたところ、いまのところ連続して赤球が出ている。ということはだ、そろそろ白球が出てこないとおかしいことになる。だから、次は白球が出る可能性が大きい。私は白球が出ることに賭ける!」


上の例においてはギャンブラーの考えは論理的に正しいでしょう。念のために正確に書き直せば「赤球を取り出しまくれば取り出しまくるほど、次に白球を取り出す確率は高くなる。私はこれまでめちゃくちゃ赤球を取り出しているので、次が白球である可能性は高そうだ。赤球が出れば出るほど、白球への期待は高まるのだ」となります。この考えは、たとえ赤球と白球の数が不明であっても正しいものです(白球が1つもない場合は除きます)。


つまるところ、第2の反駁は「だいたい人生論Jはギャンブラーの誤謬を適用できる形をしていない」という批判です。(A)を否定するのが今回の批判です。


これについては、それではなぜ人生における幸運と不運は、上記のような袋に入った赤球や白球と同様のかたちをなしているのか(何か偉大な存在が「ギャンブラー用の袋」に手を突っ込み、「幸運」「不運」と書かれた球を取り出すのか?)、そのような前提を想像しなければならない根拠が薄弱だと突っ込むことができるでしょう。


よしんば幸運や不運は袋に入った球を取り出すが如しであったとして、ギャンブラーが次のような悟りを開いてしまうこともできます。人生にはいろいろの出来事があるが、幸運も不運も袋に入った球を取り出すが如し──いや待てよ。袋には不運しか入っていないかもしれないぞ。だって袋に幸運が入っていることが保障されるいわれはどこにもないのだから。私(ギャンブラー)は今までも不幸であったし、これからもずっと不幸である恐れが十分にある。ああ、やっぱり死のう……。

ひとまずの結び


不運に見舞われ続けたギャンブラーは人生論Jに頼る根拠などなく、むなしく死ぬしかないのでしょうか?正確には、不運に見舞われ続け、かつ人生論Jに救いを求められなさそうだと悟った*3ギャンブラーは、すみやかに死を選ぶことが合理的な判断といえるのでしょうか?


無理に結論めいたものをひねり出すと、人生論Jが「論理的にありえない」としたところで、ともあれかくもあれ、件のギャンブラーのような人間はJを信じてでもいないと「やっていけない」というか、「救われない」というか、信じるほか仕方がないのでしょう。


ただ、この場合、「やっていかなくちゃならない」「救われなくちゃならない」と考えている場合にのみJを信じるほかないのであって、そもそも「やっていなかくてもいいや」「救われなくてもいいや」と考えている場合にはもはや本当にJを信じる理由などなく、やがて例のサトりから「死のう……」に直ちに連絡し、飛翔する(あっち逝っちゃう)可能性があると思われるのです。


個人的にどういう結論を出したいのか不明なまま書き出しましたが、結局どういう結論を出したいのか不明なまま書き終えました。

*1:「幸運とは不運があって成り立ち、不運とは幸運があって成り立つものらしいから」でもよいか。

*2:または「事象Pがさっき起こった。だからしばらくPは起こらない」でも同じです。これも全体のバランスに訴える考え方なので。

*3:正確な悟りではない恐れがあるので「サトった」とでも書いておちゃらけておいたほうが安全?

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