hirschkalb's blog

"I beseech you, in the bowels of Christ, think it possible that you may be mistaken."

ホメオパシーとプラセボ効果 - post hoc

エコノミスト The Economist の5月21-27日号には代替医療に関する記事 Alternative medicine: Think yourself better が載っているそうです。これをきっかけとして、個人的にホメオパシーとプラセボ効果について何とはなしに頭の中で循環させていた思いを文字に起こしてみようと思います。

代替医療疑似科学似非科学と……


代替医療とは「いわゆる通常医療の代わりとなる医療」のことを指します(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%A3%E6%9B%BF%E5%8C%BB%E7%99%82)*1。針灸、指圧、柔道整復、カイロプラクティックアロマセラピー、いわゆるヒーリング、そしてホメオパシーなどが具体例です。


上の例の中には、「下手に科学的の衣をまとってしまったが為に、」疑似科学似非科学として批判されるに値する、科学者にとっての格好の標的となってしまったものがあるように思われます*2。その代表例はホメオパシーでしょう。

似非科学を責める正当性


似非科学が責められるのは、先に書いた「通常医療」を受ける機会を奪う文脈においてだと思われます(ある種の似非科学的治癒によって「気分がよくなる」ということは十分にあるでしょう。これを責める理由は特に見当たりません)。


ビタミンKシロップを与えれば新生児の命が助かったはずなのに、その機会を奪ってレメディ(ホメオパシー信奉サイドによれば; 有効成分を希釈した砂糖球および砂糖水のこと)を与えることで死なせてしまった事故がありました。ここにおける似非科学の問題のひとつは「通常医療を受ける機会を奪ったこと」です。


上の話では通常医療のほうが似非科学より信用するにたる、あるいは、通常医療を選択することが他の行為を選択することよりも合理的な行動である、という暗黙の了解があるので、そのことにより「通常医療を受ける機会を奪ったこと」が責められることには正当性があるわけです。

プラセボ効果以上の効果はない」の意味するところは?


以下の文をどのように解釈するのが適切でしょうか。

P: ホメオパシー h はプラセボ効果 p を超える効果はない


ホメオパシーを信じる人たちの中には、Pをときに肯定的に捉えるひともあるそうです。すなわち、「なんとホメオパシー h にはプラセボ効果 p がある!」(A)という具合に。何もしないよりはホメオパスの処方を受けるべしということでしょう。


一方、ホメオパシーにくみしない文脈ではPをこう捉えるべきでしょう。すなわち、「ホメオパシー h は薬理的効果のない偽薬 p と同等の効果をみせるのが関の山である」(B)と。

プラセボ効果が通常医療の効果を超えたなら?


ここで代替医療(ここでは似非科学と同じくらいの意味を持つものとします)とを a とし、通常医療を m とします。私たちは通常、信用度において m > a と想定します。せいぜい代替医療に譲歩したとしても m ≧ a までです*3


この記号化に沿えば、(A)は「h (∈ a) = p だ!」となり、(B)は「h (∈ a) ≦ p」と書けます(「x ∈ y」は、「x は y の要素のひとつである」の意)。

(A): 「h (∈ a) = p だ!」 代替医療の一部であるホメオパシーにはプラセボ効果がある!
(B): 「h (∈ a) ≦ p」 代替医療の一部であるホメオパシーはプラセボ効果を超えはしない


さて、ところで p は代替医療の一部(p ∈ a)でしょうか、それとも通常医療の一部(p ∈ m)でしょうか。はたまたいずれでもなく、不可解なものの一部(p ∈ u)なのでしょうか。


p を代替医療の一部だとすると問題が生じます。(A)はこう読めてしまうでしょう。「代替医療の一部であるホメオパシーには代替医療の一部であるプラセボ効果がある!」。いうなればホメオパシー擁護側が「ホメオパシーは代替医療だ!」と嬉々として主張している妙な状況が描かれるわけです。


ホメオパシーがかりそめにも科学的の衣をまとったことがある(すなわち通常医療を志向した)のならば、上の主張には首を傾げざるを得ません。


p を通常医療の一部だとするとどうでしょうか。(B)はこう読めます。「代替医療の一部であるホメオパシーは通常医療の一部であるプラセボ効果を超えはしない」。一見すると問題なさそうです。しかし、次のような文が真だと仮定したときにも問題はないでしょうか?(「x ≫ y」は「x は y よりはるかに信用できる」とします)

Q: 時にプラセボ効果 p は下手な薬や通常医療 m をはるかに上回る効果を発揮する (p ≫ m)


Q を真とすると、もはや p を通常医療の一部とする(B)の言説は成り立たないでしょう。p は通常医療を超えることがあると言っているのですから。


もっとも、(B)は「通常医療がものすごく効果を発揮することがある」といっているに過ぎない、という反論もできるでしょう。しかし、それは「通常医療が通常より(非常に)効果を発揮する」といっているようなもので、そのとき p は直ちに通常医療を超える「非常医療」(?)といったものにカテゴライズされるべきでしょう。

「不可解・謎・神秘」にすることで「通常」医療を超えているかのように振舞うことができる


ということで──われながらなんだか強引な感は否めませんが──p は不可解なもの(=謎=神秘)の一部である(p ∈ u)としてみましょう。そうすると元の(A)と(B)は次のようになります。

(A'): 「h (∈ a) = p (∈ u) だ!」 代替医療のホメオパシーには神秘のプラセボ効果がある!
(B'): 「h (∈ a) ≦ p (∈ u) 」 代替医療のホメオパシーは神秘のプラセボ効果を超えはしない


こうすると、(A')は(A)のころと相変わらずホメオパシー擁護の文と捉えられますが、驚くことに(B')については(B)の意味していたところの変化が見て取れます。


もともと(B)はホメオパシーにくみしない(どちらかというと否定的といえる)文から出発したのでした。ところが(B')はどうでしょうか。「しょせんホメオパシーなんぞ神秘の効果を超えはしないのだ」といわれたところで、ホメオパシー擁護側は痛くもかゆくもないのではないでしょうか。


それは暗に次のような変換・前提が行われているからでしょう。すなわち、信用度を比較するために用いていた記号(「≦」「>」等)が、いつの間にか「もし発揮したときに期待できそうな効果の大きさ」を比較するための記号に変換され、それによって a, m, u の力関係が次のように変わってしまったことに原因があります。

I: 記号をあくまで信用度の比較のために用いるならば:
m (通常医療) ≫ a (代替医療) ≧ u (神秘の力)

II: 記号を「もし発揮したときに期待できそうな効果の大きさ」のために用いると:
u (神秘の力) ≧ a (代替医療) ≫ m (通常医療)


神秘とは「人間の知恵では計り知れない不思議」ですから、IIの場合、定義上自然と u が最上位に来ざるを得ないというわけです。また、代替医療がもてはやされる文脈というのは、おそらく「通常医療では不可能なことをわれわれが可能たらしめよう」といったものでしょうから、通常医療はここでは最下位に貶められるわけです。

あえてホメオパシーの生き残り方を考えてみる


もとより結論などなかったのですが、あえてここでは「ホメオパシーが生き残るための戦略」を提案してみましょう。

  1. 通常医療の選択の機会を奪うべからず。
  2. 科学的であると主張するべからず。むしろ神秘の力を主張すべし。
  3. ただし科学者の標的にならない程度に科学風の衣をまとうべし。


先述のとおり、似非科学が責められるべきは、気分がよくなることにあるのではなく(むしろこれは歓迎してかまわないでしょう)、「より合理的科学的処方にうったえる手段を奪うこと」にあるのであって、ホメオパシー擁護側としては、責められたくなければこの選択を許せばよいのです*4


これもまた先述のとおり、似非科学が科学者に責められやすいのは、科学者に「似非科学は隙あらば正統的な科学を名乗ろうとする危ない輩だ」という警戒心を抱かせるものだからです。よって、責められたくなければ科学と思わせぶりな態度を示さないことです。神秘の衣が隠れ蓑となることでしょう。


ただし、一度信用しきった人たちに対しては200C, 9Xといった記法や「ポーテンシー」「振盪」といった用語、専門のスクールの設立・存在の喧伝といった活動によって科学風を吹かせる(?)ことが有効でしょう。


IIに示した尺度とは皮肉にも裏腹に、人々を信用させるには科学の衣をまとって現れるのが一番なのですから。

*1:ちょっとした言語遊戯かもしれませんが、この定義には少し違和感を覚えます。「通常医療の代わりとなるもの」ならば問題はないのですが、「通常医療の代わりとなる医療」というようにあくまで代替医療も医療であると定義するならば、なぜその時点で直ちに代替医療も(通常)医療のもとにカテゴライズされないのか、という疑問が生じます。

*2:「〜しまった」という書き方を採用したことに特別の意味はありません。あえて疑似科学側の気持ちに立ってみたに過ぎません。タロットカードのような特に科学押ししないような立場を採っていれば科学的に責められることもなかっただろうにと思うのでした。

*3:ここで a > m と想定することはかなり恣意的といえます。定義から照らしてみても不合理です。仮に a > m とするならば、なぜ a が「代替」医療と呼ばれ、m が「通常」医療と呼ばれているのかを説明できなければなりません。「代替」と「通常」の意味からも、このような想定は不自然です。

*4:しかし、「通常(科学的)医療を選択させないこと」こそが合理的な処方なのだといわれたら、どう反論すべきでしょうか。科学的とは合理的ということとほぼ同意であり、そうすると先の主張は「合理的選択をさせないことこそが合理的処方なのだ」といっていることになります。それでは道理が通らないだろうというのが当座の思いつく反論です。

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