hirschkalb's blog

"I beseech you, in the bowels of Christ, think it possible that you may be mistaken."

自殺への一歩 - ギャンブラーとイカサマコイン

確率的直感から安易に自殺へ指向しがちなかわいそうなギャンブラーの話(http://d.hatena.ne.jp/hirschkalb/20110623/1308843728)のスピンオフ記事。(『論理パラドクシカ』(三浦俊彦著)をチラ見したことにも大いに影響されていますが)

コインの問題


あえて問う必要はないかもしれませんが、次の問題を考えます。

1枚のコインがあります。いまからコインを投げます。表の出る確率は?


いろいろな但し書きが省かれているように見えるでしょうか。


しかし、いみじくも何かが「省かれている」と感じたからには、それはまるで、私がこの問いを問う以前からあなたは無意識にこの問題を知っていたかのようです。ここではそのような千里眼はなしにしましょう。もっとラフに考えてください。答えは「1/2」です。


それでは、次のような問題を考えてみましょう。

1枚のコインがあります。とはいっても、典型的な数学の問題のように「表裏が出る確率が同様に確からしい」コインではありません。どうやら、どちらかのほうが出やすい(もしかしたら一方しか出ない)イカサマコインのようです。いまからコインを投げます。表の出る確率をどのように見積もるのが妥当でしょうか?


答えは「1/2」です。アンフェアなコインであるとわかったところで、「どちらにどのくらいアンフェアなのか」がわかっていない限り、私たちはしぶしぶであっても「1/2」と見積もるよりほかに仕方がありません。少なくとも「1/538」などとあえて恣意的な見積もりを採用する理由はありません*1

いつイカサマコインと判断するか


さて、次の問題はどうでしょうか。

1枚のコインがあります。いまからコインを投げます。……表が出ました。もう一度投げます。……また表が出ました。あと数回投げてみましょう。……おや、また表が出ました。さあ、あと数回……なんと、また表が。……あら、また表。……これも表。──表が10回連続で出ました。さて、賭けをしましょう。次は表と裏のどちら?


ここである種の自信を持って「裏」と答えた人は「ギャンブラーの誤謬」に陥っている可能性があります。ここでのギャンブラーの誤謬とは、「コインの表裏の出現確率は1/2であるから、この確率を保つためにはそろそろ裏が出なければおかしいだろう」と、次の予測を全体のバランスにうったえる誤りのことです。

I: ギャンブラーの誤謬
「表が連続で出たならば次は裏に賭けるべき」
「裏が連続で出たならば次は表に賭けるべき」


それならば、この問題の答えは「確率はいずれも1/2だからどちらでもかまわないだろう。それじゃあ、とりあえず表(とりあえず裏)」でよいのでしょうか。それはどうでしょう。


数学の問題集の世界に存在するコインように純粋に「同様に確からしい」フェアなコインであれば話は別です。過去にどのようなデータが出ていようと迷う必要はありません。上の答えで問題ありません。しかし、今回はそのような但し書きがありません。


連続で表が10回でる確率は1/2の10乗、すなわち1/1024であって、百分率で表現してみれば0.09765625パーセントです。律儀に検定にかけてもよいでしょうが、これほどの低確率の出来事が起こるからには直感的にもよほどの特別事情が疑われることになります。


具体的には、次のいずれかがあてはまるだろうと考えることが妥当なわけです。

  1. コインがイカサマである。
  2. めったにないミラクルが起こった。


そして、件の問題文に「コインがフェアである」旨の但し書きがなかったことをかんがみれば、「コインがイカサマである」と推測することが健全のように思われます。

「ギャンブラーの誤謬」の反対?


そうすると、今回の問題「次は表と裏のどちらに賭けるべき?」の答えは明らかです。例のコインは表の出やすいイカサマコインであることが判明したのですから、断然「表」に賭けるべきです。


このことから「『ギャンブラーの誤謬』の反対」ともいえる次のことがいえます。

II: 「ギャンブラーの誤謬」の反対
「表が連続で出たならば次はに賭けるべき」
「裏が連続で出たならば次はに賭けるべき」

ここで人生論Jの出番……


前回(http://d.hatena.ne.jp/hirschkalb/20110623/1308843728)、良いことがあれば悪いこともある、あるいは、悪いことがあれば良いこともある、といった意味の箴言(「楽あれば苦あり」「ふたつよいことはない」「先憂後楽」「人間万事塞翁が馬」)を人生論Jと呼ぶことにしました。


Jは前回、ギャンブラーの誤謬に過ぎないと判断され、かわいそうなギャンブラーを救うことができなかったのですが、今回はどうでしょうか。


「『ギャンブラーの誤謬』の反対」を導入したギャンブラーにJは救いの手を差し伸べられるのでしょうか。どうやら、Jにとっては不本意な結末を招きかねないようです。

ギャンブラー: 「人生を生きてきたところ、いまのところ連続して不幸に遭っている。これは主観的にみて相当な低確率だ。ということはだ、神の投げる俺様コインは「不幸」しか出ないように作られているイカサマコインであることを疑うべきだ。だから、これからも俺は不幸に遭いつづける可能性が大きい。……死のう」


不運に見舞われ続けたギャンブラーは人生論Jによる延命よりも確率的直感による絶息に「救い」を求めたもようです。

*1:とは書いてみたものの、「アンフェア」だといわれているのに、あえて「フェア」な1/2を棄却しない理由は何でしょうか。「アンフェア」とは「少なくとも1/2ではありえない」ということをいっているのかもしれません。それならば、1/2以外であれば何でもよい(そして1/2だけは確実に間違っている)ということになります。しかし、「アンフェア」とはそういうことではないでしょう。せいぜい「表も裏も公平に出現する、というわけではない」程度のことしかいっていないのであって、やはり1/2と見積もっておくよりほかはないと考えるべきでしょう。

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