hirschkalb's blog

"I beseech you, in the bowels of Christ, think it possible that you may be mistaken."

テッククランチの「余計な訳注」という句を見て思い出したこと

余計な訳注というのは、本来は*1、重言ですよね。なぜならば訳注というのはもともと余計なものだから。かつて『アイルランド音楽入門―音楽・ダンス・楽器・ひと』を読んだことがあったけれど、このときばかりは「訳注部分だけ抜き出して本にしろこのやろう!」と言いたくなるくらい訳注が多く、多少誇張して言えば訳注のほうが本文より多い。いや、これは誇張しすぎたけれど、そうとでも言いたい気分になったのは確かだった。しかも、内容にいちいち楯突く(訳者は無知な原著者および読者を啓蒙したかったのかもしれないが(そもそもわれわれは幾分の誤りを授けられる恐れをどこかで抱きながらあらゆる本にあたっているというのに(検定の入った教科書さえおそらくは誤りを含んでいるだろうし(高名な学者がいみじくもまえがきに「誤りを多く含んでいるだろう」というのは単なる謙虚から来ているのではあるまい))))、いつか訳注に対する注だってつくかもしれんというのに、なんというかもう冒頭に言ったように「じゃああなたが本を独立して自己責任のもと書きなさいな」と言いたくなったという、ただこの一点につきますが、「余計な訳注」とみずから記すのはそこらを汲み取っているようでなんだか好感が持てる書きっぷり。

これを読んでいておもった;http://jp.techcrunch.com/2013/06/01/20130531focus-at-will-ios/

*1:いまお話しているのはこういうふうなスタイルの訳注のことですが、「本来は」という文言を入れたくなったのには理由があって、つまり「そんなに訳注うぜえというなら原文でも読んでろこの!」という批判には耐えられないからなのでした。

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