hirschkalb's blog

"I beseech you, in the bowels of Christ, think it possible that you may be mistaken."

争いは(ry

わけのわからない絵画(あるいは、と、みなしてよいのかどうかすらあやしい何か。一名、「アート」)をみても、われわれは、あんまり「このアートはコミュニケーションを拒絶している」とかいわないじゃないですか。旧仮名だかただしいかなづかひだか、じつのところ正しい言い方は私の中では一向に定まらないのだけど、ともかくああいう文字を見て「コミュニケーションを拒絶している」といい、これでもって反論か何かのつもりにしたい心境って、まあ私にもあるんですけど、あれってさ、なまじ{キューカナ|セーカナ}が文字の体をなしているから「あれ、これってもしかして文字じゃね? 実は日本語じゃね?」という感じにさせられ、どれ一寸読んでみようかという気になり、ある程度読めるか、もしくは全部読めるが骨が軽く折れたりし、「あゝもう! どうしてあなたったらこんな読みにくいもので事を伝えようとなさって?!!」とかおもっちゃうわけだけど、あれは「アート」ですねそうですねって気になって見てみれば(そう、読むのではなく、見る。)、もとより「コミュニケーションを拒絶している」などという感想が出ることはなかったのだった。あまりにアートな書家の文字(らしい)を見て「コミュニケーションを拒絶している」という感想が漏れることもないとおもうけれども、私達がああいう表現に出会ったときの態度は、この書家の書への態度に近いほうがいいのかもしれない。絵描きの方にはピクシブがあるけれど、ああいうかなづかいの方にはおそらくそういうSNSがなくって、たまたまツイッター(技術系の人ってツイッタなどと書くんですかね)に表現の場を設けているだけであって、たしかにツイッターはコミュニケーションの場に違いないのだろうけれども、しかしそういうことなので(ほら、冷蔵庫に入る写真を投稿するための場であったりもしますし)あんまり「コミュニケーションを拒絶している」とか言っちゃうのもちがうっぽい! みたいなことをぼんやり思いました。結論としてはほっとけばと思う。影に向かって矢を放っているというかなんというか。これもそのような矢の一つですけどねとか書いておいて控えめにしているさまを表現しておきますか。

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