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hirschkalb's blog

"I beseech you, in the bowels of Christ, think it possible that you may be mistaken."

自由に書く勇気

似たようなテーマの本を読んでいる。読み進めていくうちに、似たようなことを述べている箇所にぶつかる。このことはひとつの文章に書き留めておいたほうがよいのだろうか、と思う。でも、どうも、そうしてしまうと書き留めた瞬間になんだか嘘っぽい感じがしてくるような気がする。書き留めて固めた瞬間に腐敗していきそうな気がする。そんなに簡単にまとめてしまって良いものだろうかと思う。つまり、ちらしたままにしておきたい。各著作の中で、泳がせたままにしておきたい。まとめて網をかけて引き上げて、手元に固めておいておくというのはちがうな、と思う。きれいに溶接できればいいんだけど、たぶん何か嘘が混じるようなおそれがある。

たとえば、いま私は森博嗣の「孤独の価値」を読み終えたけれど、これを岸見一郎の「アドラー 人生を生き抜く心理学」や岸見一郎・古賀史健共著の「嫌われる勇気」と照らし合わせると、森氏によれば寂しさや孤独というのは自分の主観によって作るもので、なぜ寂しさや孤独を作るのかといえば、岸見氏によれば寂しさや孤独を作ることが自分にとっての善であるからで、つまり、「ぼかあ孤独で寂しいなあ」と思うことにデメリットを上回るメリットがあるからで、それならば寂しさや孤独を感じることのメリットは何かといえば、森氏によれば精神が最も活動し、心配し、なにか手を打とうとやっきになるし、絆(家畜が逃げないように脚を縛っておく縄のこと)や柵(しがらみ)から解放されるし、古い風習に半ば強制的に付き合わされるなんてこともなくなるし、一言でいうと自由が手に入るからで、さらには美というものはパーティの喧噪のなかで見いだされるものじゃなし、美やわびさびは文字通り侘しいとき寂しいときに感じられるものだし、大人に成長することを「大人しくなる」といいますし、ゆっくり生きられるし、ストレスがなくなり優しくなれる、といったメリットが挙げられ、これが孤独であることのデメリットを上回っているということであるというのだけど、岸見氏によればそれはフロイトの「進んで孤独になり、他者から遠ざかること」(Freud, Das Unbehagen in der Kultur)という記述に近くて他者との関係を回避しているということになるのだろうか、しかし、森氏はべつに進んで孤独になりたまえと言っているのではなく、もし孤独を感じているならば、上記のようなメリットがあるんだぜ、ということであって、なかまとわいわいがやがや派を否定しているのではなく、通信もろもろ発達した現代にあっては、むかしは叶わなかった孤独な生活もたのしめるし、他者への貢献もできるんだよということであって、森氏も岸見氏・古賀氏も自由については、

(森氏)

絆が切れれば、孤独と自由が手に入る。なお、現代においては、孤独であっても他者に貢献できる。

(岸見氏・古賀氏)

他者ではなく自分の人生を生きると自由が手に入る。対人関係が避けられない以上、自由の代償として、他者からは嫌われる。なお、嫌われることがあっても、他者に貢献できる。

ということで、だいたい似ている。ちがうのは、森氏は人間関係は現代においてはあるていど交通整理でき、孤独になりやすくなったとする一方、岸見氏・古賀氏は、対人関係のなかには人生のタスク(社会的な存在として生きていこうとするとき、直面せざるをえない対人関係)があって、人生のタスクを回避することは「人生の嘘」であり、自由を選んだときは、対人関係において嫌われることも恐れてはいけないとしている点かなと思ったけど、本の中には「上司があなたのことを嫌っている。しかも、明らかに理不尽な理由によって嫌っている。だとすればもう、こちらからすり寄る必要などないのです」と哲人に言わせている場面もあるし、お三方とも同じようなことをおっしゃっているのかもしれないなー……といった具合にぜんぜん整理されない思考の垂れ流しになっちゃうので、ほら、きれいに溶接できないでしょう。だから、泳がせたままにしておきたいといったのは、そういうことなんです。

 

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